Monday, 19 September 2011

咄嗟の時の対応力

相方の代わりに医者に行って処方箋を受け取らなければならないことがあった。
個人オフィスではなく、何人かの医師がいる小さなセンターで、受付があるから受付に声をかけろと言われた。

行って、受付に声をかける。
「○○の代わりに処方箋を受け取りたいのですが、、、」と、相方の名前とドクターの名前を告げる。
あいにく、受付には用意されていなかったので、
「ご主人は、いつもこちらの先生の診察を受けているのですか?」など聞かれる。「そうです」と答える。
コンピュータでカチャカチャッと何かを調べ、また質問された。

「××を持っていますか?」

ん? 初めて聞く言葉。「××」。どうしよう。とりあえず、もう一度聞き直す。
でも、わかんない。
仕方ないので、
「すみません、あまりイタリア語がわからないのですが、、、」と言ってみる。

受付の女性、まぁ!っと明らかに呆然と困惑の混ざった表情をして両手を腰にあてる。

出たっ。言葉のわからない人に対して親切ではない人だっ。
これは仕方ない。どこでだって、旅行中だって、経験するかもしれないことだし。

そして、受付の女性、私のわからない質問を何度も繰り返す。
何度言われたってわからないものはわからない。

結局、その場にいた別の女性がドクターに内線をかけて、処方箋の件は一件落着。相方は代理人が行くことをドクターに伝えていたけど、ドクターが準備して受付に回しておく暇がなかっただけ。

言葉ができないことは棚に上げて言うけど、、、。
他の言葉を使って言い換えて欲しかった。



さて、こういうとき、私はいつも思う。
”咄嗟の時の対応力”は磨いておくべきだと。

今、私の身に起きるのは言葉の問題が多いと思う。
言いたいことが言えないときは、知っている単語を駆使して言い換えてみるか、あの単語かも?と間違っててもいいから言ってみるとか、何かをトライする。絵に描ける状況ならば描いてもいい。最終手段はボディランゲージだってある。
これ、自国語を話していても、起きうる事態だと思う。物の名前とかって忘れちゃうこと多いし。
でも、相手が言っていることがわからないときはどうしたらいいのか。繰り返されたってわからない。先に進めない。

言葉だけではない。
たとえば、料理を作ろうと思ったのに材料が足りない、電車などに乗り遅れたから目的地へたどり着くための別の手段を考えなければいけない、などなど、小さなことでもたくさんあると思う。咄嗟の出来事。

言葉の意思疎通が難しい相手と話す機会は、ある人には毎日のように起こることかもしれないけど、一生に一度もない人だっていると思う。経験上、「場慣れする」ことが一番と思っているけど、誰もが同じように体験するものでもないだろう。
でも、グローバル社会を目指そうとうたっている現代社会、もうちょっと機転の利いた教育があるといいと思う。与えるばかりの教育ではなく、考えて行動させる教育。発想転換を学ぶ、”日常生活サバイバルコース”とか(笑。あったら受けてみたい)。

自分は教育者でもないし、今までに深く教育や社会について考えたことなかったけど、自分なりに生活の中で対応力をつけてきたと思うし、これからも何かが起きたら発想転換して行動できるようになりたいと努力している。

ちなみに、これに関係してすごいなと思うこと。
相方側の甥っ子、5歳。
この年齢(これ以下の年齢)では、親だって子供の考えていることを理解することは難しいと思う。
母親は常に「言えることがあったら言いなさい」と言葉にさせるようにしてきた。
今では、私がわからない単語があると、別の言葉を使って説明しようとしてくれる。このおかげで、私も会話が進められることがある。すごいでしょ、5歳に助けられてる私。
ある日、何人かの大人たちの前で「プールが改築中である」と言いたかった私。でも、”改築中”なんてイタリア語は知らない。「ほら、新しくして、、、直して、、、。」”工事する”という単語すら知らない私には、説明しようとすればするほど深みにはまっていく。最終的には英語に切り替えて話は通じた。
私が「あー、うー」とか言葉を探して唸っている間、横からその5歳の甥っ子は私の手をゆさぶり何か言っていた。
英語に切り替えて話が終わってから、その子が何を言いたかったのかがやっとわかった。

「ricostruzioneだよ!」(ricostruzione = 改築)

えーーーー? 私が身振り手振りを交えて唸って探していた言葉を、大人でもわからなかったのに、この子にはわかってたんだ!
しかも、5歳で”改築”って言葉を知っているなんて!

ちょっと、この子の将来が楽しみである。

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